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近傍

位相空間においては、任意の2つの部分集合について「くっついている」とか「離れている」とか述べることができます。これは近傍という概念で定式化されます。そして(1)で述べたことを思い出して下さい——「言語空間とは無限次元の位相空間である」。言い換えれば、それぞれの単語は無限次元の位相空間における部分集合だということです。このことについて当書では、以下のような例とともに解説がなされています(20頁)。

次の二つの文を比べてみて下さい。
     ① 少女は 花を 摘む。
     ② 少女は 海を 摘む。
②の文は文法的には間違っていませんが意味的にヘンです。ではなぜヘンだと私達は感じるのか? それは私たちの頭の中で『摘む』という言葉の近傍に『花』という言葉はあっても『海』という言葉が存在していないからです。また別の見方からすれば、『花』という言葉の近傍に『摘む』という言葉があっても『海』という言葉の近傍には『摘む』という言葉が存在していないからです。ここで一つ分かることは、『花』と『摘む』とでは“お互いがお互いの近傍”として存在するということです。
自然言語処理に興味のある方ならば、word2vecについてはご存知でしょう。word2vecの扱う空間は内積、ひいては距離を必要とするので純粋な位相空間ではなくなっていますが、実質的には、ちょうどそれと似たようなことを人間もやっているということになります。

さらに、以下のように述べられています(21〜22頁)。

<『花』という言葉の近傍にある言葉>
 摘む・咲く・バラ・浜昼顔・昆虫・蜜・綺麗・赤・紫・花びら・茎etc…
<『摘む』という言葉の近傍にある言葉>
 ・レンゲ・スミレ・浜昼顔・茶・わらび・手・指先etc…
<『海』という言葉の近傍にある言葉>
 海辺・海岸・砂浜(浜昼顔)・船(漕ぐ)・魚・クジラ・珊瑚礁・流氷etc…
気付いていただけたでしょうか?『海』や『摘む』という言葉の近傍にはどちらも『浜昼顔』という言葉があります。浜昼顔は海辺の砂浜などに生息する植物の名前です。実は位相空間における近傍については次のような規定があります。すなわち近傍の近傍は近傍で、その近傍の近傍もまた近傍で、更にその近傍の近傍は近傍というふうに、最初の近傍系の半径をεとすると、εは孫悟空の如意棒のごとく(これはあくまでも例えですが)一瞬にしてミクロからマクロ、宇宙の果てまで伸び縮みします。ここで近傍の近傍は近傍だということの片鱗を読み取っていただきます。の近傍には海辺があり、海辺の近傍には砂浜があり、砂浜の近傍には浜昼顔があり、浜昼顔の近傍には摘む咲くがあります。つまり『近傍の近傍は近傍』によって“海”の近傍半径εは大きく伸び、その結果“摘む”も海の近傍に入ってくるということです。ただし近傍には近い遠いという概念的距離が存在していますから、『摘む』は『海』の近傍系の中で『海辺』や『砂浜』よりずっと遠くにあるということは言えるでしょう。
続けて当書は、自然な文の条件として、文を構成する部分集合のすべてが1つの近傍で繋がっていることとしています。これはとても美しい考え方です。『少女は 海を 摘む』という文は、『少女は 海で 海辺の 砂浜に 咲く 浜昼顔を 摘む』のように、繋がっていない(近傍にない)部分集合の隙間を補うことで自然になると言うのです(22頁)。また以下のような、クレリカに関連しそうな話もあります(23頁)。

ただし無限個ある組み合わせの全てが意味的連結であるわけではありません。例えば(少女、海、摘む)。単なる単語の羅列です。ですがこのような文法の束縛を受けない単語の羅列の場合、意識下での連合が比較的自由になされますので、例えば(少女、海、摘む)から「少女は海辺で花を摘む」というような文が何気なしに意識に上がることがあります。すなわちこれがゲシュタルトです。ですがすぐにゲシュタルト崩壊を起こし再び意味のない単語の羅列に戻ります。ではなぜゲシュタルトは起こるのでしょう? それは意識下での連合において近傍の近傍は近傍と近傍εを伸ばしていったからです。つまり連想ですね。反対にゲシュタルト崩壊は近傍εが縮小して近傍が非連結になることで起こります。
ここまでの一連の展開は一見すると非常に鮮やかです。単語どうしが近傍にあるかないかだけで、文の自然さが決まってしまいそうです。しかし、少し考えてみると、人間の感じる「不自然な文」の範囲に対して上記の説明では十全でないことがわかります。近傍という概念によって解決できるのは言葉選びの段階までであり、例えば以下のようなケースには通用しません。

  1. 少女は花を摘む。
  2. 花は少女を摘む。

ワァオ! 2を自然だと思えますか? まるでこれから巨大植物の捕食行動が始まるかのような趣です。位相空間において、「少女」「花」「摘む」はお互いがお互いの近傍として存在するはずなのに、これはどういうことでしょうか。この問題は、以後の投稿で当書の残りの部分を参照しながら解き明かしていこうと思っています。

余談: クレリカにおける事態の表現力

クレリカには格や固定語順がないので、上記のような問題は起こらないかと思いきや、そうではありません。既に上で述べられているように、ただの単語の羅列としてのみ事態を表現するのであれば、話者たちはそこから何気なしに意識に上がる程度の事態しか想起できないことになります。言い換えるなら、ただの単語の羅列では、自然な(想像しやすい)事態しか表現できないということです。このことは言語運用において致命的です。当たり前のことばかり話して何が楽しいのでしょうか? そのような言語においては、話が弾むということはないでしょう。

問題はそれだけではありません。以下の例を見て下さい。

  • 彼が熊を食べる。
  • 熊が彼を食べる。

この2つの文は、どちらも(事態を想像しやすいという意味で)自然です。これを単語の羅列にしてしまうと、どちらの意味なのか本当にわからなくなってしまいます。

  • 彼 熊 食べる

格も固定語順も持たず、かといってそれらを持つ言語と同程度の役表現を行うにはどうすれば良いのか。とても難しい問題です。今のところクレリカでは、文脈を疎外しない方法を採っています。それとはつまり感性詞です。感性詞は、表現される事態について話者たちの感情を常に付与します。このことが目覚ましい表現力を齎します。上の例で言えば、

  • 彼 熊 食べる —— 恐ろしい

とすることによって、話者たちは、「彼が熊を食べる」と「熊が彼を食べる」のどちらが恐ろしいか、という判断を行います。多くの場合で後者になるはずですが、話者たちが「彼」を敵視している場合や、「彼」という存在がとても恐ろしいものとして通っている場合など、その限りではないでしょう。(1)の最後に述べた感情観念複合体の自然な反映です。このようにして、ただの単語の羅列にすぎなかったものが、話者たちの生々しい息遣いとともに、しっかりと事態を表現するものとして力を持ち始めるのです。

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